「もの」「こと」の選択
よく練られた作品が面白い。
「もの」を作る作品と「こと」を扱う作品、どちらが好みかと問われたら、こう答えるほかにない気がしました。
「こと」を扱う美術、例えばプロジェクト系などの作品も、昨今は主流派のひとつになりつつあるとはいえ、制作点数および知名度は依然として「もの」の作品とは比べものになりません。
「こと」の実現には、必ずしも理解があるとは言い難い周囲への働きかけが必要なことも少なくありませんし、そういった説明責任を負っているぶん、自分たちのしていることに客観的視点を持たざるを得ないのでしょう。制作行為そのものにラディカルな問題意識を持っている割合が、「もの」の制作者たちよりも俄然高いのは事実です。
しかしながら当前、「もの」を作る作家たち全てが制作の行為性に着眼できないほどナイーヴというわけではありません。ほんの一握りの作家たちは、熟慮の末、「もの」の制作を選択しています。その控えめさ・ないし頑固さが、私は好きだったりします。
あらゆる可能性を吟味し、一巡していること。
作家のスタンスの善し悪しを決めるのは結局、どちらを選択したかではなく、どう選択したかにかかっているのだと思います。
ねむい
悩み事を抱えながら適当にググっていたら、社会システム論とドラッカーにたどり着いてしまった。まともに調べようともしていないけれど。
はっきりとした輪郭のないムニャムニャした問題を、無理矢理型に押し込んでトコロテンのように絞り出すと、定型に細かく寸断されて、とりあえず整然としているように見える。抽象化して類型化して普遍性の高いエピソードに持ち上げると、今し方対峙していた問題は私からぺろんとはがれ落ちて、立ち所にどうでもよくなった。
ありがちな緒問題を、真正面から受け止めてもらちがあかない。私のような器の小さい人間は、ますます上手に受け流していかないと、すぐ目一杯になって、溢れだしてしまう。そんなのひたすら損だし、誰の為にもならない。
アドバイスをくれた人たちの言ってたことが、少し解った。こんな当たり前のことが腑に落ちるまで、だいたい25年間かかっている。まあ、そんなもんかな。
しかし、よくある人生訓に落ち着くのもだらしない思考停止で、格好悪いんだよな。
リフレイン
頭の中に誰かいて、こちらの挙動に対していちいちああでもないこうでもないと否定的な意見を述べてくるので、私は完全に萎縮してしまって、思うように作業が進みません。胃が痛い。
それは意見なのか提案なのかルールなのか? 具体例を伴った事細かな指示が蓄積していって、そこから逸脱する可能性のある事柄を選び取ることができず、身動きがとれないのです。覚えてないから進まないのではなく、覚えていすぎるから進めない。ひとつひとつを忠実に守ろうとするから、大前提を守れない。何も考えていないからわからないのではなく、先の先を読んでいるから踏み出すことができないのです。
原因の根を説明する時間もないし、そんなことしても意味のない場面だととわかっているから、ただただ阿呆みたいに頷くことしかできないのです。誤解されてるのを十全に意識しつつ。辛酸をなめるっておそらくこういうことでしょう。辛くて酸っぱいものだとわかっていながら、それをなめなきゃならない。だから胃が痛むのです。
芸術は自由だなんて脳天気なことを思ったことは一度だってないけれど、せめて自分の作品制作くらいは誰の言うことも聞かず、結果だけを見せたいです。どんなに小さくても構わない、自分の自由になる土地を。お金なんかいらない。
一見公平で公正な形式ほど、嘘みたいなものもないです。開かれた形式がどんなに閉じているか。そのフォーマットに見合う内容だけが精査されていること、せめてその枠を設けた人間は意識すべきだし、それが言葉にならない良きものの芽を根こそぎ奪い取る構造の強化に荷担していることをきちんと認識すべきです。やるんなら、その程度の覚悟はないと困ります。
北極星
6月も終わってしまった。世間の動きは思いの外ゆっくりで、私は未だ個人生活のインフラが整わないままでいます。こんな調子では折角人に会っても世知辛い卑俗な話題しか提供できません。
一番いけないのは、私が引け目を感じていること。目下生活をとるか制作をとるか、という極めて低俗な問題に曝されていない身分を恨めしく思うこともしばしばで、情けないことですが、ときに自分自身の不安が誰かへの不満となって噴出します。(このまま作家活動を続けていくことはできるのか、制作・発表の機会はあるのか、私の作っているものややっていることには意義なり意味なりがあるのか、私が今こんな状態なのは自分の力不足によるものなのではないだろうか、表現スタイルによって被り続けている不利・それを打開するための策と力が私にあるだろうか…)どうせ迷うのなら、せめて高級な問題に引きつけて積み上げ可能な「考え」としたいものです。
近頃はこういう宙ぶらりんな状態にも少しは馴れてきたようで、まあ美術家の卵なんてこんなもんなのかな、気楽に行こう、とも思えるようになってきました。美術雑誌の若手アーティスト特集を見ていても、学校を出てから5年くらい経っている人が多い気がします。もちろんその限りではないけれど、だいたい5年間はこれくらいの不安定さをキープしているんだろうな、と思うとなんだか頭が下がります。
大学院修了まで運良くストレートで通ってきた私には、とくに、何かどこかでひとつでも選択を誤れば作家としてやっていくことはできない、という強迫観念が根強くあって、それがあらゆる一歩を踏み出させずにいます。しかも大小様々の情報が裏表の意味を伴って、私をふらふらさせるためだけに飛び込んでくるのです。
こんなとき、極めて遠くに目標を定めることの意義を感じます。周囲の動きに惑わされないこと。最も大切なものを見失わないこと。
twitterやめました。
twitter、自分には不向きだったのでやめました。
どうやら私は、人が今何をしているかということに取り立てて興味がないみたいです。知人の意外な一面を目にしてほほえましく思うことがある反面、いや、それ以上に見たくないものをずいぶん見てしまって、それに耐えられるほど大人でもタフでもありませんでした。以来、意識的にナンセンスなつぶやきを差し挟むことでTL上の話題を拡散させてみようとあがいたりも(ちょっとだけ)しましたが、案の定無駄な抵抗でした。
せめてTLをシンプルにしたいなあ、と思いながら、コメントを全削除するのもフォロワーをはずしていくのも面倒だったのでいっそのことアカウントごと埋葬してしまいました。フォロワーの皆さん、さようなら。。
うまく活用できている人もいるのだろうけれど、その数は巷で喧伝されているよりよっぽど少ないのだろうと思います。セルフプロデュースの難しさが、編集やデザイン、広告業を成り立たせているのだな−、などと、さかしまに導き出したりして。
今後は当blogの継続とタグ打ちによるホームページのグレードアップ、ポートフォリオの更新、名刺の多機能化という少々アナクロな方法を用いた宣伝活動を行っていきますので、今後ともよろしくお願い致します。