ある種の作品に対する違和感
美術家が作品を通して「誰か」に呼びかけているということがはっきりしている場合に、その「誰か」が背景に蠢くモブのようないい加減さで抽象化された人間だったりすると無性に腹が立ってきます。そういうのは記録写真とか作家の態度をみればわかることだけど、ほんとうに信用できないやつだと思う。無神経で粗暴だからそうなっているのか戦略家でずるいからそうしているのかはケースバイケースだと思いますが、中途半端に味方として振る舞うくらいだったら小馬鹿にしているほうがまだましだと思うことはどちらに対しても同じです。
私には「本物」と「偽物」の違いがよくわからない。よくわからないというか、後者は前者に比べて無理をしている度合いが大きいということなんだと理解しています。そう考えると、先の美術家の態度は圧倒的に偽物なわけです。だったらせめてそこに戸惑いを感じていて欲しい、と思わずにはいられません。
無題
地鳴りに似ているからなんだろう、ディーゼルエンジンがかかるたびに頭のてっぺんがしびれる。スタジオ近くの道路は10分おきにバスが通っているので、その都度ちょっとした緊張を強いられつつ作業。
ここ数日頭の中がとりとめもなくまとまらない。畏れるほどのことではないんだけれど、どうにも居心地が悪く、効率も悪い。それから最近は軽く吃音気味になっていて、言葉が出てこないことがあり、気になっている。…抑圧という言葉のことだけれど、何か特別に恐怖している物事を避け、その事実を誤魔化すために頭を鈍くするってことは確かにあるかもしれない。
頭の中を整理するためにこうして文字にしてみると何だかとてもひどい状態のようだけれど、別に心配するほどのことではないということは自分でもよくわかっている。不調についての感受性が強いだけなのだ。少しでも乱れた筆で良い字は書けないんだと、幼い頃に教わった書道の鉄則が今もいきているに過ぎない(乱雑な性格と矛盾して困る)。
floating viewカタログ制作
floating viewカタログのために文章を書きました。自費出版とはいえ、プロの書き手の方がほとんどという中に拙文を載せていただく、というのはなんだか恐縮です。立場的に論考にはなりようがなかったので、ちょっとへんな体裁をとっています。少しでも面白かったらいいなあ。
表紙は完成まであとちょっと…!!先述の膨大な苦労は狙い通りの効果を生んでいて、上々かしら、と。
雨が降ったりやんだりしている。みんな元気かな。
私淑
floating viewの表紙画像を作っています。表紙に使うのが前提だけど、これはこれで独立した作品として仕上げる予定です。
ところが主題への思い入れが強くなりすぎて、ベジェ曲線で巨匠の模写を始めてしまい、想像以上の労作に。自動選択ツールを使わないのがミソなので、わからない人にはもう自虐にしかみえないであろう、アホみたいに途方もない作業が追加されてます。
このやり方に関して言えば、模写とはいえ、原画にはいろいろつじつまの合わないところがあるので、整合性を生み出すだけの腕前が要るし、考え方や手癖のちょっとした違いが作品全体の印象を大きく左右するから、作家性だって出ます。量だけじゃなく質も問われる、結構シビアな作業なんですね。また、ベジェ曲線は便利ですが、ともすればやたらと素っ気なくなって、かえって雑な印象を与えかねないので、注意が必要です。一昨日からやってるので、さすがにちょっと疲れてきた。
この巨匠も、過去の巨匠を模写していて、表情の違いなんかが面白かったりします。
とは言ってみたものの、今回のメインはそこじゃないので、この作業はあくまでサブ的な要素として入りこめばいいなあ、と。調整には自制心が必要なのです。
藝と植物
藝の原字は「埶」で「木」+「土」+「丸」の会意文字で両手を添える様を示し、植物に手を添え土に植えることをもとは意味した。のち、さらに「艸」を添え、「蓺」として、植物であることが強調された。「芸」は「云(ウン)」を音符とし、「たがやす」に意を持った別字であったが、後に混同された。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%A1%93
ってことは、「culture」の訳は「文化」っていうよりむしろ「藝」ないし「芸」が適当ってことなのかしら。
メモメモ!