越後妻有に行ってきました。

越後妻有アートトリエンナーレ2009http://www.echigo-tsumari.jp/2009/index.htmlに行ってきました。実は私は今回が初めての妻有だったのですが、噂通り、本当に広い会場ですねー。東京23区よりも広いのだとか。全ての作品を鑑賞するには最低でも三日を要するそうですが、自分で回る場合、それだけの時間があったとしても相当計画的にやらないと、主要作品を網羅することすら難しいかもしれません(予期せぬ道が通行止めになっていたりします)。

一泊二日の短い滞在ではありましたが、ホワイトキューブ以外の場所で展示をすることが多いタイプの作家として、始終、制作者の視点からものを観ていたように思います。今回はこの場を借りて、現在進行形で人が暮らしを営む場所で作品を展開するということについて、自戒の意味も込めながら再確認してみたいと思います。

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妻有のような街ぐるみのアートプロジェクトにおいて、そこに関わる全ての立場にとって当然生じるであろう問いというのが「どうしてここで美術展なのか?」という問題です。これをもうちょっと具体的に言い換えると「作品を見て回るということは観光旅行とどう違うのか?」あるいは「この展示会場はテーマパークとどう違うのか?」といった疑問になるかもしれません。そしてそれによって生ずるメリット・デメリットも重要視されるところでしょう。

企画者や作家は、住民や行政を納得させるためにもこういった問題へのアプローチが不可欠になります。そしてここで展示をするからには、作家はまずもってその行為を肯定しなければなりません。それは単に作家の姿勢であるに留まらず、取りも直さず作品の内容に直接影響する問題です。

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これらの問いに対するひとつの答えとして、その場所の持つ特異性、あるいは地域性というか、場所の持つ文脈にコミットするという方法が挙げられるでしょう。例えばこの妻有であれば、ゆるやかな山肌に広がる棚田や、世界有数の豪雪地帯であること、2004年の新潟中越地震の経験や、限界集落や過疎地域の問題などを取り上げる。この方法はその場所への歴史的理解や作家の着目した特性への注目を集める反面、それらが過度にシンボライズされることによって、却って場に対する見方の画一化を招き、むしろ旅人/観者本来の洞察力が損なわれる危険性も孕んでいます。ジョン・ケージは観光地の絵葉書を嫌いましたが、同様にこういった方法が、その場所の持つ複雑さを捨象してしまう可能性を持ったトリミングであるということを、私たちは心にとめておくべきでしょう。

しかしながら、アーティストと呼ばれる個人や、ある時代のアーティストの集団が新しいものの見方を創っていく存在であるとするならば、〈クロードの眼鏡〉のように、やはりある程度、作品は〈色眼鏡〉であるものなのです。「表現は誰にでもできるものだけれども、その表現について自分の名前で責任をとるのがアーティストだ」とは友人の言ですが、作家が提供するのが〈色眼鏡〉であるのなら、そこで作家が負う責任とは、ひとつにはそのレンズの精度ではないでしょうか。良い作品は、単にモチーフの見え方を限定するのみならず、ラディカルに変容させながら、かつ視界を妨げず、それ無しのときよりもなおいっそう豊かに見せてくれます。

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それから面白かったのが、あれだけの広い会場内を車でぐるぐる回る、という体験そのものでした。山村に出向くことはあるかもしれないけれど、あんなに執拗に巡回するなんてことは、宅配業者でもない限りまずやらない気がします。色とりどりの花や、山にかかる雲や、不思議なかたちの納屋や、農作業に従事する人たち…次々にいろんな風景が見えてきます。移動という動作や空間を上手く生かした作品は、著名作家のみならず、学生作品にも惹かれるものがあったりして、素直に感心していました。

また、大山エンリコイサムさんもブログで触れているhttp://d.hatena.ne.jp/OEIL/20090730/1248905898アントニー・ゴームリーに至っては、廃屋という文脈を半ば無視したかのような格好でで見事な黒漆のブラック・キューブを仕立て上げ、その姿勢にはもはや清々しささえ感じるほどでした。無視した、と言いましたが、そこに厭な印象はなく、むしろアレンジメントのような虚構で飾り立てない分、力強い真摯さを受け取りました。

空間における配置やその場における振る舞いを視野に入れた制作は、先ほどの問いに答えるもう一つの方法として有効であると言えるでしょう。精緻なレンズは、場所と直接向き合うことによっても生まれてくるのです。これは私の制作活動にちょっとした希望と、ある方針を投げかけるものでもありました。