「システムの再構築」レポート

スパイラルで開催中の『混沌から躍り出る星たち 2009』に行ってきました。京都造形大学卒業・修了生の選抜展ですね。合計3回のトークイベントのうち、8月1日のTALK SESSION 3 『システムの再構築』を見てきました。パネリストは美術解剖/美術評論の粟田大輔さん、美術家の池田剛介さん、ドゥルーズ研究者で批評家の千葉雅也さんの三名に、三人の紹介者として後藤繁雄さんが加わるかたちです。
4月に私も企画に関わった『絵画を再起動する』の延長線上の議論として、さらに具体的な美術作品の例を挙げつつ展開されました。

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まず、池田さんが現在このような美術・批評関係のシンポジウムおよびトークイベントが活況にあるという事例を挙げながら、90年代から2000年代にかけての社会の動向と美術を巡る状況の変化についてまとめれらました。

90年代から2000年前後の美術の傾向として、川俣正日比野克彦に代表されるような〈ワークショップ〉〈プロジェクト〉タイプの“開かれた”活動があります。また村上隆の〈スーパーフラット〉は充分に海外を意識した上で、戦略として日本文化、オタク・カルチャーを扱う活動でもありました。

しかし日本であれば95年の阪神大震災オウム事件、世界的に見れば2001年の同時多発テロを契機として(他者への不信、あるいは当たり前にあったものがなくなってしまうという破壊の経験などから)、美術における表現もまた〈私の小さな世界〉へと内面化して行きます。そして奈良美智的な系譜として、マイクロポップや『ウインター・ガーデン』『ネオテニー・ジャパン』展に見られるような作品たちが生まれることとなりました。これらは内向的な作品の日本型の畸形といえますが、その発生は世界全体よりも若干早かったと見ることができるかもしれません。

こうした世紀末的な不安感をおびた社会情勢=資本主義の回転率をひたすらに上げていくというオーバードーズ状態――にあった世界に、2008年の世界同時不況が起こり、2009年にはマイケル・ジャクソンがまさにオーバードーズによって死亡しました。2009年がまたひとつの区切りとなることを予感している、というところで話は粟田さんに移ります。

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粟田さんは、ご自身の批評活動のキーワードとされている〈マテリアル〉について、最近注目されている作家を具体例として画像で挙げながらご説明されていました。まず、今メゾン・エルメスで個展を開催中の名和晃平。名和は自らの作品を「ものの表皮」への操作と捉えているそうです。粟田さんは「ものの表皮」を「マテリアルが持っている可塑的なパラメーター」とし、その思惟課程と制作過程について、アリストテレスの〈形相(eidos)〉〈質料(hule)〉の図式を用いてご説明されていました。(今言及されているような〈マテリアル〉が注視される作品の制作スタイルと、それ以外の制作スタイルの差異について、私が充分理解できていない部分があるので、ここではちょっとうまく説明できないのですが。。)

ここで2008年、粟田さんが企画され、池田さんも参加された 『ヴィヴィッド・マテリアル』が議論の俎上に上ります。『ヴィヴィッド・マテリアル』では、作品の中に自然現象を取り入れていることをひとつの基準として作家・作品の選考をされたそうですが、この〈自然現象〉というのが、他ならぬ素材やメディアの持つ性質のことなのです。例えば、後ほど千葉さんも取り上げる田幡浩一の『bee』という映像作品は、白い画面の一部に一匹の引っ繰り返った(死んだ?)蜂が描かれ、それが徐々に消えていくという内容ですが、この蜂が消えていくのは編集としてのフェードアウトの効果ではなく、ひたすらに同じペンを用いてコマ撮りアニメーションを描いていった結果、だんだんとインクがかすれていき、やがて描けなくなってしまうというマテリアルの物質性によるものでした。

さらにこういった観点から最近注目している作家として、金氏徹平、川北ゆう、栗山斉、増本泰斗の名前が挙げられます。

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そして千葉さんにマイクが渡されます。まず千葉さんは情報論、生態論の比較から話を始めます。情報論とは、全てがデータの束、つまりタグであるというような言説であり、全てが束と見なされるということは、言い換えれば全てが分割可能性:ディヴィデュアリティを持っているということになります(このあたりの詳細は『絵画を再起動する』のログhttp://www.ottr.cc/con_tempo/archive/april/reboot.htmlをご覧下さい)。このような切り分けに対して生態論は、「身体の中に入っていて、内部から身体を変化させる」ような視点を持っていると言います。

日本の思想業界では、〈アーキテクチャ〉に代表されるように、情報論が生態論を包括するような図式で捉えられることが多いのですが、このような〈情報生態論〉の成立は、あくまでハードウェアが安定した状態にあることが前提条件となっています。しかしながらそのハードウェア自体が壊れてしまう、といったときにどう対応できるでしょうか。

そこで千葉さんは、95年、あるいは9.11のような“アクシデント”、マテリアル・カタストロフィを語る切り口として、個人単位ではカトリーヌ・マラブーの『脳損傷』、地球規模ではトム・コーエンの『気候変動の哲学』を挙げます。コーエンは、今後気候変動によって海面が上昇した際に、例えば図書館が水没して、それまでのアーカイブが機能不全に陥る可能性があるけれども、そのときに人間の〈歴史=物語〉はどうなってしまうのか、といった議論(CCC = Critical Climate Change)を展開します。
先にもあげた田幡作品は「無限ループできない」という意味でマテリアル・カタストロフィ的であると言えるでしょうし、また別の作品においては認知症、ないし脳損傷的な側面を持っています。

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いよいよ三者のテーマが絡み合ってきます。
身体性、とでも言いますか、こういった、ある種インディヴィデュアルな変容の可能性は、やはり美術にとって重要な要素であり得るでしょう、といったことが粟田さんから確認されます。データの束として記号化されたキャラは、その分割可能性故にストーリーに帰って来ないのです。
そこで「作品をどうまとめるのか?」といったことが問われた際に、まず作者にとって一番身近な題材が〈私の小さな世界〉として選ばれ、マイクロポップネオテニー的なものとして立ち上がってきます。また一方で、60年代のアースワークのようにあくまで作家という主体と対峙する大自然としての〈自然現象〉でもない『ヴィヴィッド・マテリアル』は、両者の中間に位置するものとして捉えることができるでしょう。

ここで池田さんから、モダニズムのようにあるジャンルの純粋性を先鋭化させていくのでもなく、それらのフレームを単に破壊することによって突破を試みるというのでもなく、aというジャンル、bというジャンルの狭間でその両者を引き受けながら、それらを翻訳し、その摩擦によってそれ自体が変容していくような制作のあり方が提示されます。
例として挙げられたのは『崖の上のポニョ』でした。(私は未見なので詳細はわかりませんが)この映画は前半部分でストーリーを終えており、後半はひたすらポニョが無目的に変形するという時間に充てられているそうです。

話題は最初の、現在活況にある美術・美術批評系トークイベントに戻ります。
コーエンのCCCには、criticつまり「批評の危機」という意味合いが重ねられていることが明らかにされます。情報環境の変化によって数多くの雑誌が廃刊や休刊に追い込まれる中、ブログを中心にあまた発生したアマチュア批評の多くは、これまで丁重に退けられてきた印象批評の形式をとっているにも関わらず、総アクセス数によって検索上位に挙げられることもしばしばです。こういったグーグルのシステム環境が、今後の美術批評を左右する重要な鍵となるのでしょう。
しかしあるいは千葉さんの言うように、現在のシステム――ハードを内側から変容させていくような新たなルールが、それらの飽和によってこそ生まれてくるのかもしれません。

と、いったところで時間になりました。

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急いでまとめたレポートなので若干尻切れ感が無くもないですが、おいおい手直ししつつ、、というところで。こちらもちょっと出かける時間になったので行って参ります。