金氏徹平展と原口典之展

先日、横浜で開催中の金氏徹平http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2009/exhibition/kaneuji/と原口典之展http://www.bankart1929.com/を観に行ってきました。

作品タイトルにもなっているように、金氏さんの作品は「漂白」がひとつのキーワードになっています。あえておおざっぱに分けてしまうとするならば、この個展における「漂白」の手法は二つあって、一つは、そのモノに元来与えられた意味を剥奪するということで、もう一つが剰余を顕在化するということです。具体的には、前者には①(主にレディメイドの製品を)部分に分解し、組み合わせることによって色彩・形状を飽和させる、②白を被せる、といった行為が挙げられ、後者には、白を満たす――①空のプラスチック容器に石膏を満たしたり、②シールの背景というか、余白部分をひたすら貼っていったりとか、そういう行為が挙げられます。

カタログにあった言葉が少し気になったので書いておきます。恐らくキュレーターの方かな、と思うのですが 、金氏さんの作品に対して「あふれるモノのリアリズム」、ないし「私たちと関係を取り結ばない、風景としてのモノ」といった言い方をされていたと思います。
しかし「モノ」は本当に「私たちと関係を取り結ばない」のでしょうか。ここを少し丁寧にみていくと、むしろ「モノ」は意識に上るか上らないかは別として、認識される「モノ」である以上、何らかの所作をこちらに要求しています。それは見ろとかよけろとか座れとか、無視しろというのも含めて。特に人工物はえてして〈意味無く〉作られず、私たちは常にモノの意味と要求に取り巻かれて生きています。それは情報としてのモノ、というか、関わり方の選択肢はあるけれども、形状によって付与されたその意味以外の見方を許さない、という性質を持っています。それ自体は仕方のないことなのですが、その要求が飽和してくると、だんだんモノたちとの関係を取り結べなくなってくるというか、要求の持つ流れに乗りつつも無視せざるを得ない、先に述べられた意味での「風景」化が起きてくるのかな、と思います。風景という言葉については立場上?ちょっと慎重に使いたいなという気もしますが、とりあえず。

金氏作品の、特に『White Discharge』のシリーズを見ていて、都市のリアルを感じると同時に、すがすがしさというか、何かちょっとした復讐が遂げられたかのような・してやったり感を感じるのは、モノを意味から剥奪し、「何だかよくわからない」モノ自体へと還元することで、これらの意味や要求を撥ね付けているせいなのでしょう。

私は電車の中吊り広告とか、看板とか、ネット上のバナー広告とか、人の気を引こうとしているもののあり方が気になってよく観察してしまうのですが、今日、こうした広告のない空間というものは金銭で遣り取りされる贅沢品となりました。高級感を売りにした広告は、文字量があくまでも少なく、紙や特殊印刷にこだわったりして、紙や写真そのものをじっくり見せる、という傾向があります。なるほど、このやり方のほうが「情報量」として感受される量は多いのかな、という気もします。広告をデータとして扱うときに、文字データであればほんの数キロバイトなのに、デジタル写真であれば数メガバイトかかってしまう、というような意味で。モノそのものを見ることはもはや贅沢なのです。

ここで原口さんの個展に接続する、というわけなのですが、やはり『Oil Pool』の廃油の存在感は圧倒的でした。深さがわからないほどの漆黒。先月観に行った池田亮二展であらわされたような無としての黒ではなく、物質としての黒です。存在としての黒、とでも言いましょうか。密度と重さを持ち、光を反射・吸収し、熱を反射・吸収し、音を反射・吸収し、臭気を放ち、なめらかにあるいはざらついて、べとつきあるいは乾いて、微かに震え・波打ったりしなったりしながら均衡を保ち、たたずまいや気配をもってそこにある「モノ」たちをただただ眺めるということは、まず、幸せであるかもしれません。個展には「社会と物質」というサブタイトルが付けられていて、もちろんその物質が持つ社会的な重みについても考えざるを得ないのですが、それでもあえて悦楽とでも言いたくなるような時間でした。

こんな風にモノとモノ、白と黒、という具合で繋がりうる展示でもあると思うので、ぜひ両方観てみるのがいいんじゃないかなー、と思うのですが、どうやら客層被ってないようなのが気になりました。もったいないなぁ。