過渡期

floating viewカタログの表紙を作ってる。疲れたので10年くらい前に買った企画展のカタログをみる。マイナーなピカソ

古本屋で出会っても恐らく買わないだろうから、あのとき買っておいて良かったと思う。過渡期の作品群。未完成で発展途上で(あるいは解体の最中で)、人間くさくていい。試行錯誤に励まされる。

524 :ホットスポットより、お茶を飲みながら

私の生活圏、生まれ育った地域一帯はホットスポットらしい。5/12調べでは、取手市守谷市茨城県内で最高値の双璧をなしているわけです。次の測定は明日。
http://www.pref.ibaraki.jp/important/20110311eq/20110512_02/



このへんにいると福島県の一部地域と変わらないくらいの放射線を浴びることになるそうです。テレビ視聴者の母はそんなこと知らない。たぶん大概の人が知らない。このままでは、この地域一帯は保障の対象外ということになってしまうんだろうなぁ。。。



テレビやラジオや新聞なんかで聞かないのは、特定地域のいわゆる風評被害を恐れてのことなんでしょうね。確かに、大々的に公表すればこの辺りの地域経済は破綻するでしょう。私含むたくさんの人たちが路頭に迷うでしょう。だけど同時に外で走り回っている子供たちはどうなるんだろうと思う、、、いわきでもほこりまみれになって部活動に励む子供たちがいましたが。。。親なり教師なり顧問なり、誰かがどこかで止めようとは考えないんでしょうかね。。。



私たちは思ったより移動できない。簡単には移住できない。生活習慣を変えられない。
受け入れられる悲しみの量には限界があり、そこを超えたら思考停止なんですね。



ホットスポット化、一説によると、このブログの「322」日記の一行目にある雨が原因らしいです。
ははは、悔しいなあ。

523

1.
移動距離と学びの量は必ずしも比例するわけじゃない。
まして移動距離の長さが作品の質を良くするというわけでもない。
移動の疲労と題材の凄まじさを作品の力だなどと、決して勘違いしないように!
そんなことを考えながら、少し遠くまで行って来た。




2.
自分の作風を控えめだと言われることがある。
逆に不思議に思うのは、世に溢れる美術作品があまりにも刺激的なイメージに偏っていることだ。
衝撃的な図像は人目を引くけれど、それに蹂躙されている繊細な事柄だって少なくないでしょう?
刺激に頼ってはいないか、広告物の影響を受けすぎてはいないか。
曰くどんな広告でも、人間を軽蔑しているようなところがあるらしいから。




3.
放射能は見えない。音もしないし、においもわからない。
だから処置については各々の判断に任せるしかないんだけれど、知覚の穴と理性の限界は思ったよりも近かった。
老人の自分には関係ないことだと、マスクをしないおじさん。誰もいなくなった故郷を巡回する日々に打ちひしがれた彼を責め立てる気にはならない。だけれど、そうすることがほんとうに問題のないことだと思っているんだろうか? ゆくゆく彼の灰が放射能を散らすことだってあるでしょうに。
2011年5月下旬現在。マスクを付けながらこれまでの生活を続けるのは無理だと、おそらくは断言できる。




4.
子供騙しで人は救われない。
仮に救われる人がいたとしても、取りこぼされるたくさんの人たちがいる。
それでよしとなっている様々なシーンを、なんとかしなきゃならない。
アートしかり。でもそれだけじゃない。
医療、介護、生き続けることの困難。




5.
ひとではない力に身の回りのものをかき混ぜられたとき、ひとはそのものたちをどのように分けたか。
■人。
■土砂、コンクリートアスファルト
■木、金属、ゴム、プラスティック。
■毒物。
■写真、人形、思い出の品。

虎のバター

ふと気になって「とらのバター」で検索してみました。
ご存じ、「ちびくろ・さんぼ」のお話です。



驚いたのは、みんな、
  ★とらはバターになるということ
  ★そしてパンケーキにされておいしく食べられてしまうということ

を知らないということなんです!



きょうび、こんなに自明な事柄が、ほかにあったものでしょうか。



(このまちの、このくにの、このせかいのそこいらじゅうに
バターもとらも、とろっとろのべったべたになって
あふれているというのにね!)


(笑っちゃう!)



なんだかお腹がすいちゃった。

そしてねいつか、「とらのバター」というタイトルで、個展を開いてみたいんです。

411

めまい、吐き気、腹痛、微熱?
平衡感覚についての文章、大詰めで三半規管がいかれたみたい。

これが地震酔いなのか、地震の一週間後に死んだセキセイの症状をなぞるようにダウン。「揺れてる気がする」なんて程度のもんじゃないです。一時は横になってるのもしんどくて、座ると横たわるの中間ぐらいの斜めの格好で休んでいた。今は朝よりだいぶ楽になったから、こうしてタイプもできるけど。

いくらなんでも今日余震多すぎる。夕方はもうずっと揺れてるような感じ。
私がクジラだったらもうとっくに座礁しているな。
いいかげんここから逃げ出したいと感じることが時々ある。

331

用があって鎌倉に立ち寄りました。

こちらはもう桜が満開に近いほど咲いていることに驚き、それ以上に、震災の爪痕など全然残っていない(かのようにみえる)街の景色に一瞬、この3月に起きた災害の全てを忘れそうになっている自分に驚きました。冷めやらぬ非常時はただのうららかな春の日になりそうになりました。


混乱の時流に乗っているようで厭だけれど、原発事故は私にとって紛れもなく大きな出来事です。これまでたくさんの「触れる」作品を作ってきたけれど、この一件でその多くは再現できなくなったと考えています。それは端的に場所のコンテクストが変わってしまったせいですが、恐らくもう二度と前と同じ気持ちで同じ技法を使えないのではないかと思ってしまうのです。

だって、これまで当たり前のように、子供が親を慕うような信頼感で身を任せてきた空気や水、植物や土といったあらゆるものに対して、危険だから「触れるな」という禁止がかけられているのですから。


見た目には何ら異変なく、春なのに。


春と言えばよく祖母とセリをつんでお味噌汁に入れたり、ヨモギをつんで草餅を作ったりしていました。それができないんですね。なぜできないんでしょうか。

よくよくみてみると、その禁止をかけているのは紛れもない自分自身なのだということに気付かされるのです。


景色が、環境が、それと意識せずに信じているものが、一瞬にして、ぐるりと反転する。そういう作品を作りたいと思います。

322

雨だ。昨日から降り続いている。まとまった雨が降ったのは震災があってから初めてのことだ。


数日前、マスクも付けずに薄着でお洒落してほっつき歩く子供たちを見た。
外国人はすぐにいなくなった。
昨日は通い付けない100均で大量の雨合羽を買い求める団塊世代のおっちゃんを見た。
水色マスクで出歩く人を見かけるようになったのも、昨日からだ。


原発に関して、何が正しい情報なのか、私は知らない。けれど、ネットをチェックしてる人たちとテレビ・新聞のみを情報源にしている人たちが、街中ですぐさま見分けが付いてしまうっていう事態に戦慄している。今、街に出るってことは、私たちの無防備さを眼前に突きつけられるってことで。


直接の身の危険というよりも、自分を取り巻くあらゆる物事(事故の状況、家族や知人やペットのこと、食材の選択、外出の方法、電車の運行状況、ガソリン・灯油の入手、経済への影響、私たちにとって意味を変えた環境というもの、展覧会のこと…)に対して常に払い続けなくてはならない途方もない注意力のことを考えると、居場所を変えた方が良いのではないかと思ったりもする。


でもこんな異常事態の中に身を置くなんて、そうそうないだろうから。今何が起きているのか、事実によって解釈が少しずつ組み換えられていく様子を、ひとつづつ丁寧にみていこうと思う。