twitterヘタレユーザの長い長いつぶやき――見えすぎることによってみえなくなること

twitterがエラーで先ほどから更新できません。こんなときは、みなさんブログに一時的に回帰していたりするのでしょうか。

フォローする人数も増えて、私にとっても徐々に生活の一部と化してきている感があるtwitterですが、やはりどこかなじめない気分が抜けないのは否めません。私の周囲に限ったことかもしれませんが、ブログやmixiに比べても抵抗感を示している人が多いような気がするのはなぜなのでしょうか。


ツールの使い方は人それぞれだと思いますが、仮にリツイートされるような文章がエライ、ということになると、その内容はあらかじめある程度の限定を被るでしょう。即ち、〈引用に耐えうるだけの自立性をもった文章〉、〈ネット上の集合知の一端となるべく精査される可能性を持った文章〉、そしてそれに向いた内容ということです。まず情報圧縮能力が問われるために、それを書けるような人物は限られてきます。
また、誰が、いつ、どのようにして書いたのか、といったような著者の状況が解読の鍵となる文脈依存度の高い文は、よっぽどの有名人でもない限り流通しないでしょう。そして知名度や注目のベクトル、つまりtwitter上における人物の重要度は、フォロー/フォロワーの人数によって容易に比較可能なため、私のようなナーバスなユーザーには、ある種覇権的な構造が見えてしまって息苦しかったりします。


もう2年前に書かれたものになりますが、最近『ケータイ小説的。』という本を読みました。興味深かったのは、登場人物たちは友人や恋人と繋がるためのツールとしてケータイを常用しながら、物語の核心部分となる秘められた想いの伝達は、「絵馬」や「闘病日誌」といった時代錯誤なツールによって【偶然に】、しかも一定の【タイムラグをもって】なされるということです。〈届くはずの無かったメッセージが届くということ〉――そんなファンタジーの出現はもはや悲痛ですらあります。情報の流通が加速しても、想いが育つのにはある程度の時間が必要なのではないかと考えるようになりました。twitterがそこはかとなくドライな理由のひとつであるかもしれません。


ケータイやメール、ひいてはtwitterのような即時性の高いツールを用いつつ、ドライでハードなだけじゃない、ファンタジックな(?)コミュニケーションをとる方法はないでしょうか。

私のように積極的とは言い難いユーザーがなんとなく知人ばかりをフォローしていると、つぶやきの内容それ自体よりも、むしろそこに〈書かれていないこと〉が気になっていることに気付きます。例えば誰かが「スタバなう」とつぶやいたとして、誰と、何のためにそこにいるのか、どうしてそれをそのように書き込もうと思ったのかなど、PCやiPhone片手に息を潜めているその人を勘ぐってしまう、といった現象です。

先ほど真っ先にその流通の困難を指摘した、こうした文脈依存的な言動にこそ、私は可能性を感じていたりします。含みを持たせる、という言い方もできるでしょうか。本当のメッセージは〈書かれていない部分〉にあり、二重三重の構造と意図を読み解けるのはごくわずかな人だけです。内輪であるばかりか、本当に伝えたいメッセージは最後まで誰にも解読されないままでいるかもしれません。

しかしそこに【〈届かないかもしれない〉という事実】と、【〈届くかもしれない〉という偶然性】、【解読−伝達までのタイムラグ】があることで、メッセージの伝達という事柄に対する心的強度が生まれ出るだけの余地があると思うのです。「届きますように」と祈る行為そのものが人への想いであるならば、それは文章の指示する具体的な意味内容の蓄積以上に、私の大切にしたいものでもあります。


twitterのように、誰もが発信できるツールだからこそ。。