NEW DIRECTION展 #1「exp.」

同年代の若手作家たちの展覧会です。中でも藤本涼さん、村田宗一郎さんは大学の同期でもあり、そういう意味でよく見知った作品でもあるわけなのですが、それが他の若手作品と組み合わされたとき、どう見えてくるだろうと。

時間もなかったことだし、まず私はメモも持たずに見て回ることにしたのですが、おそらくそのときの私に「見えてこないこと」こそが重要なのではないかと後に思い至りました。

良いとか悪いとかではなく、ただ字義通りに、肌で感じる違和感がない。これが時代の共通感覚なのでしょうか。だとすれば、それは私がこれまで考えていた以上に大きな影響力を持っているようです。

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今回は、ログを友人に任せ、ちょっと強引に自分の問題設定に引きつけてみました。シンポジウムについてのログはこちらをご参照下さい↓

NEW DIRECTION :exp. (1)―――特異的凡庸とはhttp://d.hatena.ne.jp/ssk_ysk/20090906/1252209124

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シンポジウムで言及されるいくつかの項目についても、体感的には指摘されるほどの特異性として認識していない自分がいました。ことに、インスタレーションとしての空間の使い方について、池田剛介さんの言われた複数のメディウムを横断する中間地帯としての空間ということと、粟田大輔さんの言われた美術館をも(ホワイトキューブオルタナティブスペースかといった二項対立ではなく)ひとつのローカルな場所として扱うということについて、私自身もそういう感覚をベースに制作していることは否めません。

私は複数のメディアを同時に見せるというようなやり方はあまりしないけれども、横断に際しての抵抗感が、観るにしても作るにしても希薄なのは確かです。また、美術館のような白紙の空間を一つの選択肢として考えるというのもまさにその通りで、7月の中間審査展であえて真っ白な球体を作ったのは、ひとつには白壁へのアプローチを狙ってのことでもありました。

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まるで展示における空間が生活空間と地続きであるかのようだ、と形容することができるかもしれません。あたかもインテリアを「配置」するかのような感覚。(ここで「私」が強調され、それを核にしたまとまりを持つと〈マイクロポップ〉になってしまいそうですが)それは粟田さんの仰った〈もの派〉と〈マテリアル系〉の違いということとも繋がってくるように思います。ものとものとの関係を出来事化するにあたり、そのもの同士の関係が1:1であるかのような60年代〈もの派〉に対して、〈マテリアル系〉の作家は、1:1ではあり得ず、もの自体の変形を伴うということでした。

ここで言われる変形というのは、そのものに物質的な操作が加わることを指すのでしょうが、あえて拡大解釈すれば、例えばもの同士の配置関係によっても、そのものの性質は変形させられていると言うことができます。

印象論になってしまうかもしれませんが、その辺りにも〈もの派〉と現在の若手作家に違いを見いだせるような気がします。「もの」なのか「空間」なのか、その境界がごく曖昧で、あやふやであるということ。それは池田さんのフェルメールに関する言及、光に照らされたものたちが白い細かな斑点の集合になっていて、その粒は名和さんの『BEAS』シリーズにも通じるものがある――という指摘に繋がってくるかもしれません。

このトータルコーディネイトされた作品空間において「鑑賞者」は、そして「作者」は、どこに位置するのでしょうか。今回展示されている作品の多くで気になったのはそこで、作品において観者をどのように捉えているのかといったことを、作家たちに伺ってみたいものです。

曖昧な領域と中間地帯、○○対○○、というスローガンを引き受けない表現としてあるということ。前回のシンポジウム『システムの再構築』において言及された〈アースワーク〉と〈マテリアル系〉との違い、主体としての人間対大自然という構図ではない「自然現象」を扱った〈マテリアル系〉、という話にも通じます。

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修了作品解説論文に書こうとしていることのネタバレになってしまいますが、こういった若手の傾向は、世界が外側を持たない大きな家として「家政化」しつつある、と言われていることと関連するような気がしています。

大きな家においては何を作っても内部空間(インテリア)と化してしまうというのであれば、千葉雅也さんの仰るように、破壊によって外部へと突き抜けようとするサディズムの効力は既に失われており、私たちはマゾヒスティックにフレームを受け入れ「内在的変形」を目指すより他ないのかもしれません。だとすれば、私が「家具」を作り続けるということはアイロニカルな意味で有効だったりしないかしら、、と思っています。

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我らが「家政」は家(=ハードウェア)自体の維持管理に奔走しているわけでもあります。

限られた資源を有効に使おう!無駄をなくそう!みたいな、まさに主婦的経済感覚で舵取りされる地球号。その目が美術に向けられたとき、エコロジープロパガンダとしての美術作品以外許されなくなってしまうのではないか、といういささか極端にも思える危惧を私はしていたわけなのですが(そして実際、それに近いことはあったわけで、生きた植物を扱う作家として少々やりにくさを感じていたのは事実です。ブームは一段落したのでしょうか)、エコロジーを巡る議論全般がくだらないと言っているわけではもちろんなくて、むしろ未来に向かってすべきことは、当然のこととして行われるべきだと思っています。だからこそ安易な精神論に堕すのではない、各方面からのちゃんとした分析が必要なわけで。

その点、前回千葉さんが取り上げたトム・コーエンの「気候変動の哲学」は興味深かったです。これまで人類が築きあげてきた蓄積が、上昇した海面に飲み込まれてしまうというアクシデントによって、アーカイヴとして機能しなくなる。すると、人間の歴史観、ひいては人間そのものの自己認識が変わってくるのではないかという。

実際に海面がどれくらい上昇するかはさておき、情報すらも物質であることを免れ得ないということは、最終的に作品を「もの」として落とし込んでいく美術作家にとって重要なことでしょう。様々な要素として分割可能ではあっても、制作の結びにはそれがある「もの」として提出される必要があるのですから。

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今回出品していた作家は、85年前後か、あるいはそれ以前に生まれた方々だろうと思います。私も85年生まれなのですが、「95年」当時は10歳、辛うじて物事を考え始める年齢でした。

考えてみたら、芸祭を中心になって運営している大学一年生というのは、現役合格だったらたかだか4歳でしかないんですね。前述のチキン人形ぶら下げ事件にしても、阪神大震災、オウム、酒鬼薔薇聖斗、という、世界に一足先んじてやってきた世紀末をリアルタイムで経験している世代には、恐らく出来なかったことだろうと思うのです。「95年の断絶」は、ここにもありました。

やはり、世代の溝は想像以上に深そうです。私たちの世代は世に何を呈示できるでしょう。マテリアルに着目して制作された作品でも、それが世に出るときは、ある社会性を背負います。


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それにしても今回は引き受けなければならない前提の多いシンポジウムで、パネリストの方々もさぞや苦労されたことと思います。『絵画を再起動する』に続く『システムの再起動』までの議論を受け継ぎつつ、新たなパネリストとして木幡和枝さんをお迎えし、さらに展示の作品評を織り込まなければならず、観客層を考えて平易な言葉を選ばれてもいましたし。。。うーん、大変だ。。。

後藤繁雄さん曰く、これからもこのシンポジウムは継続する予定だそうですが、一聴衆として、パネリストのみなさんが思いっきり話のできる環境を整えていただきたいと切に願っています。