下品と自覚

いくつか観たものがあるのですが、ちゃんとしたレポートはおいおい書いていくとして、昨日あったことを。



芸祭最終日に行ってきました…が、あまり時間がなかったのと、ある出来事のせいで、20分程度しかいられなかった。

展示も何も、一切観られず。というのも、美校大浦食堂の裏手、絵画棟に向かうメインストリートに大変趣味の悪い人形が、首をくくった格好でぶら下げてあったので、気分が悪くなって退散したのでした。

毛をむしられた状態のコミカルな表情をしたチキンのゴム人形で、空気圧かなんかで「ア゛ーーー」という断末魔をあげる、、、、という代物なんですが、避けられない位置で無視できないほど大きな声を上げているもので、本当に公害としか言いようがなかった。今年みた中でも最低のモノに、よもや我が校で出会うとは。。ゴミ箱に突っ込んでやろうかと思ったけれど、よく見たらその1体だけじゃなく、いっぱいあったのでやめました。

悪ふざけしたくなる気持ちは分からんでもないですが、誰もが目にする公共空間の真ん中に吊しておくのはいかがなものかと。こんなところで学生の質を問われたくないし、問いたくもないです。



夕飯を食べたファミレスでは、隣の席で話し込んでいる女性の発声に吐き気がする。ある種の人々の、夢中で話をするときの潰れた嬌声。周りの状況が全然見えてないというのが一番端的にあらわれるのは、声だったりします。悪い人ではなさそうなんだけど。

サウンドスケープの対極に位置するのはBGMではなく、実はこういう状態にある人間だったりするのではないでしょうか。音の風景の文脈を読まないのではなく、音の風景そのものが彼女の中で存在していない。



昼には、池袋に後輩の劇団「提灯検査」の舞台を見に行ってきました。こちらもきわどいネタ満載の演劇で、しかも公共空間をがっつり巻き込んで展開されていたのですが、なぜだろう、そんな厭な感じはしませんでした。もちろん人によっては見るに堪えない演出もあったようです。しかしこの違いは何でしょうか。知り合いだから安心しているというのはあるにしても。



自明なことではありますが、3者の違いは、自覚とそれに賭けられたものの有無にあるのでしょう。チキン人形にしても、作品としてあるのだったら恐らく許せたのではないかと思う(作品としての質はともかく、行為として)。作家としての名前が賭けられているということに、私自身がある程度の信頼を寄せているということがわかりました。だから作家自身のあり方にも多くを要求してしまいます。