子供たちのことを考える

ああ、疲れた!
今日はこまごまとしたいろんな仕事、主に執筆活動をしていました。



9月の後半に、小学生に美術を教えに行きます。この企画書みたいなものを考えるのがひとつのお仕事だったのですが、与えられたテーマに対してなかなか接続できなくて、なんだかのびのびになってしまっていました。

子供のころ、子供の話を聞かないような、真剣な呼びかけを適当にあしらうような、そんな大人にだけはなりたくないと思っていました。だから真剣です。ちゃんと彼らと対峙しようと思う。変な大人かもしれないけれど、怒るべきときはマジで怒るし、笑えるときは一緒に笑いたいと思ってます。実際はなかなか難しいんですが。



2年前もこの企画に参加して、そこで学んだ教訓でもあるのですが、子供は大人ほどは観念的な世界に生きていません。考えてみたら当たり前のことなんですが、私たちはやっぱりどうしたってその感覚は失ってしまっている。それは別に悪いことなんじゃなくて、卒業したってことなんでしょうけれども。

2年前、たたみ6畳ほどもある大きな絵をみんなで描かせるつもりで子供たちに絵の具を与えたところ、時間が経つにつれて、子供たちは絵の具の「色をつける」という機能よりも、物質として「いじくりまわすと紙が溶けてぐしゃぐしゃになる」とか、「クレヨンは水をはじく」とか、そういうことを楽しみはじめたのでした。触覚も含めた五感全体で絵の具の物質性を楽しむなんてこと、私は忘れていました。



そんな子供たちですから、ただ想像しなさいとか言うよりも、何か実体のある「もの」と触れ合う機会を作った方がいいんじゃないかと考えたのです。

特に一部の大人たちに危惧されているような「ものと直接触れ合うような機会」が失われつつあるとして(もちろんそれで即、ゲームが悪いとかなんだとか言うのは短絡的なわけですが、子供が商業の格好のターゲットであり、彼らを取り囲むあらゆるもの・あらゆる機会が商業的に用意されている所から言うと、それは経験の剥奪と言えるのかもしれません)、そのような状況におかれながらも、「もの」を見つめるやり方を、私たち大人は教えることができるかもしれないし、そうすべきなのだろうと思います。

将来想像力(創造力)を働かせるためにも、彼らはものと触れ合う必要があるのです。それらの学習の時間のことを、子供時代と言うのでしょう。



子供は想像以上にずるいので、こちらがちょっと手を抜けば、たちまち大人が喜ぶような、器用に良くできたかわいくてキレイなものを作ってしまうでしょう。私もある時期までは、そういうものを作るのが図画工作なんだと思っていましたから。しかしそれではもったいないと思います。だから、頭をひねって格闘しないと完成しないような、そんな課題を作りたいのです。