壊れることをみせるということ、壊れるものをつくるということ

港千尋さんが出品作品について書いて下さいました!

2009年末に広尾のフランス大使館にて開催した「memento vivere / memento phantasma」http://www.ima.fa.geidai.ac.jp/memento/index.htmlのカタログに掲載されています。カタログはまだ私の手元になく、また時間の都合上一読した限りなのですが…ドゥルーズベケットの『消尽したもの』との関連させて書いて下さっています。



写真の通り、この「延びた面影」という作品は、ぐずっと崩れたような人型で、足先からふくらはぎまでがかろうじて立体として残っているような状態です。港さんも「折からの悪天候によるものであると思うが」と気を遣ってくださっていますが、これはまさに崩れ・壊れていくことを念頭に起き、それを主題として制作したものでした。


ものや人の配置が変容していくという作品を手がける中で、その変化のあり様が「崩壊」や「散逸」となるような作品も何度か制作しています。そこで問題となるのはいかにして「壊れる」ということを見せるか? ということです。大きく二通りの見せ方があるでしょう。即ち、


■実際に壊れていくものを作る (時間軸を持つ)
■壊れていく/壊れてしまった かのようなものを作る (時間軸を持たない)


という選択です。当初この作品は、前者の〈実際に壊れていく〉ものとして制作されていました。しかし、崩壊のタイミングや形状など、理想の条件で崩れていくものを作るのは容易ではありません。今回は工法の都合上、後者の〈壊れたかのような〉ものを作るという選択を折衷案的に盛り込むこととなりました。少女の脚は、期間内であればある程度の風雨にさらされても激しく倒壊することはないでしょう。


展示会場となる場所がいわゆる生活空間ではなく、美術館のような非日常的な(?)空間であればなおさら、観者と作品との出会いはほんの一時のものとなります。一回りして後者を選ぶということは、むしろその限られた時間を逆手にとり崩壊を描くという、手堅くオードソックスな手法に回帰するということでもあります。


前者のような時間軸を持つ作品手法を取り入れるためには、素材や工法の問題はもちろんのことですが、それ以上に「展示」そのもの、つまり観者と作品との接触のあり方自体を模索する必要があるだろうということを常々考えています。修了制作作品の「Humus」もまた、そういった場の制約から逃れられない運命にありました。